新刊の『モハメッド・アリの道』(デイヴィス・ミラー著)を読む。
ぼくがこれまでモハメッド・アリに関する本を読んだのは、『ザ・ファイト』(ノーマン・メイラー著)と『叛アメリカ史』(豊浦志郎著)の中の一章「モハメッド・アリの断片/シンボリズムの生態抄」に続いてこれで三冊目となる。ぼくはこの三冊が三冊ともそれまで全く知らなかったアリ像が描かれており、強烈な逆転パンチを食らったが如く、その度にがらりとモハメッド・アリ観を変えるものだった。それまで一冊の人物論で当初抱いていた人物像とこれほど違った経験はなかった。しかも三度も。いったいアリとは何ぞや。
決して大袈裟ではなく、世界中で多くの人がある問いかけをしてきた。それは、いったいアリとは何者なのか?ということだ。

大学時代(その頃はプロレス兼野球少年から『空手バカ一代』に憧れて格闘技青年へと順調に成長?していた。ちなみに格闘技界ではぼくの年代を『空手バカ一代』最後の直撃世代と呼ぶ)、初めてモハメッド・アリについて書かれた本を読んだ。『ザ・ファイト』だった。この本はアメリカの当代きってのジャーナリストであったノーマン・メイラーが旧ザイールのキンシャサで行なわれた若き王者ジョージ・フォアマンとのタイトルマッチで奇蹟的な勝利をおさめる「世紀の一戦」と言われた試合を描いたものだ。絶対的不利との下馬評の中、アリは高等技術ロープアンドウエイでフォアマンの強烈なパンチをガードし、一瞬の隙を衝いて逆転勝ちをおさめる。世界中がどよめいたノックアウトシーンであった。一般にアリの凄さは「俺は空前絶後の偉大なボクサー」と言い放ち続けた男が、実際に三度も王座に着き、それを具現化したことだ。この「世紀の一戦」での奇蹟的な勝利がその筆頭だった。しかし、メイラーはこの一戦を単に試合観戦記としてではなく、黒人とはいったい何者なのだろうかと思索することを試みる。二人の黒人ボクサーのファイトを哲学したのである。それに応えるようにアリの発する饒舌が哲学的な輝きを帯びることになるから不思議だった。

『叛アメリカ史』(豊浦志郎著)の中の一章「モハメッド・アリの断片/シンボリズムの生態抄」には、「世紀の一戦」以前のアリとその時代状況が描かれている。
六十年代にアメリカで吹き荒れたブラック・パワーの象徴的存在がアリだった。アリは当時の黒人指導者マルカムXの影響を受け、リング外で発する饒舌が政治的な響きを帯びることになる。当時、アリは自分のリングネームをカシアスXと一時期、名乗ったりもする。
「白人はたえず黒人を痛めつけてきたし、黒人たちもそれは人種的に劣っていたから仕方ないことだと諦めてきた。しかし、それがまちがいであることははっきりしている。黒人は誇りを持たねければならない。黒は最高なんだ。そのことをおれはリングの上で証明した」などなど。  黒人が国家に対してアメリカ合衆国有史以来、最大の異議申し立て運動の最中に、こうした発言をする世界チャンピオンのアリ。いち運動選手でこれほど己の個人史と同時代史が共鳴して輝きを放った者はアリをおいていない。まさに彼は黒人世界の代弁者であり象徴であった。
その後、アリの快進撃にストップをかけたのは、ヴェトナム戦争の徴兵拒否によるタイトル剥奪と試合出場停止処分である。アリがリングに復帰することを許された時には、ブラック・パワーが衰退してからだ。本書ではその状況をこう解説する。
「以後の彼の言動はどれほど政治的修辞に彩られようが、もはやかつての妖光はなかった。彼とツインの関係にあった黒い世界の状況がすでになかったのである」
普通ならば、政治的イデオロギーを背負い現代史の檜舞台で活躍した希代のボクサーは、その政治イデオロギーの終焉とともに己の存在意義=社会的役割も終わるものだ。ただのいちボクサーに戻るか、あるいは引退か。だが、アリは復活する。それもただ単に長年のブランクの後、世界チャンピオンへ返り咲いたという意味ではなく。四角いリングを政治的イデオロギー闘争の仮託の場へと昇華させた張本人にもかかわらず、その自分が寄って立つものが消滅した後、今度は己を、黒人を、そしてボクシングを哲学するよう新たなメッセージを発したのである。あのジョージ・フォアマンとの「世紀の一戦」はそうした背景とアリの個人史の流れの中でおこなわれたのだった。

「世紀の一戦」から数えて七年後の八一年現役引退。世界から注目され続けたボクサーはリングから姿を消す。  ぼくは、引退後はてっきりモハメッド・アリは、パンチドランカーで廃人同然の余生を過ごしているとばかり思っていた。しかも、銭儲けを目的とした者や政治家の道具とされているのではないかと。全米各地を回りながらサイン会に出席する、まるで売れなくなったどさ回り歌手のような仕事をしたり、ペルシャ湾岸危機の時はアメリカ人人質解放のためにバクダットに赴いたり。究め付けなのは、九六年アトランタ・オリンピックの最終聖火ランナーとして登場。震えの止まらぬ手と不自由な足取りで聖火塔まで歩く姿は痛ましく思えた。そして、IOCは「モハメッド・アリにはIOCにより金メダルのレプリカが授与された。オハイオ川の出来事から実に三十六年ぶり」と発表。粋な計らいであることを演出した。アハイオ川の出来事とは、六十年に白人専用レストランで肌の色を理由に入場を断られたため、その年ローマ・オリンピックで獲得していた金メダルをオハイオ川に投げ捨てたエピソードのことである。体制との和解。美談仕立て。
<あんたは心の方も骨抜きになったんだな>とういのが感慨だった。

ところが、である。今回読んだ『モハメッド・アリの道』には、それとは全く異なるアリの引退後の日常の断面が綴られていた。著者との会話の中では、アリはパーキンソン症候群を患っているため、若き日の早口でまくしたてるような話し方と違い、小声でゆっくりとしゃべる。その肉声は哲学性を帯び、しかもユーモアをたっぷりときかしている。アリの日常生活に触れ、アリから「よう、兄弟」と呼ばれている著者は訴える。アリは判断能力もちゃんとあり、家族と一緒に過ごし、イスラム教徒として日々の祈りを欠かさぬこと。今でもアリの行く先々でサインと握手を求める人々で長蛇の列ができること。アリはそれを嫌がりもせず、あらゆる人々をごく自然に受け入れること。世界で最も有名で、世界で最も多くの人と握手したのがアリだと。
誤解を恐れずに言うならば、アリは廃人ではなく教祖となっていたのだ。誰でも受け入れ、祝福を与えることができる。アリと一緒に時を過ごすと幸福感が得れる。それでいて信者(信者=アリを偉大な人間と信じる人達と言い換えていいだろう)には何も要求しない。これは究極の教祖の所業である。世界にはたくさんの教祖なる人物が存在するだろうが、アリは正真正銘の教祖的振る舞いをしている。アリ流に言えば「俺は空前絶後の偉大な教祖だ」と。
小さい頃から熱狂的なアリのファンであったという著者はアリについてこう論じてみたりする。
「~おれがあんたたちが望むとおりの人間になる必要はないんだ。~ アリの人生における主題のひとつは、彼という人物についてわれわれが抱く狭い概念におさまりきれないこと、正しく要約することなどできないということだ。彼の生命と精神は、入れ物のふちからあふれだしてしまう」

いったいアリとは何者なのか?この問にアリはこう答えることだろう。「俺を論じきれる奴は空前絶後だれもいやぁしねぇんだ」と。

(97年10月記)