一号線を北上せよ
著者 沢木耕太郎  講談社 1500円

中年沢木の静かなる旅

沢木耕太郎の紀行文は、常にひとりの旅人の視座で捉えられたものだけの「小宇宙」 が描かれていく。
彼が確立した「私ノンフィクション」という、自分が見たもの、接したものだけしか表現しないやり方である。誰にでもできる旅と表現方法であるが、ではこうした紀行文が誰にでもで編めるかいえば、そうはいかない。ノンフィクションの手法にこだわり続け、「私ノンフィクション」を手練した沢木耕太郎だからこそできる紀行作品 である。多くの異国紀行文やルポルタージュは、たいていその国の社会状況や比較文化を論じる。そこには「私」は控えめに存在し異なる世界への描写が主役となる。極私的な
「小宇宙」か、俯瞰的な大きな世界か。ぼくはどちらも好きだ。ただどちらが 長く読み継がれるかと問えば沢木スタイルではなかろうか。だからあの「深夜特急」 は長く支持され、色あせないのだ。
この紀行本は「この10年余りにおける」八編の中短編から成る。近藤紘一、キャパ、アリとフォアマン、壇一雄、ワールドカップと彼が係わったテーマへのゆかりの地への訪問の旅である。いつもの、これまで通りの、「移動」する物語を強く意識したつくりになっている。幾分、異なるのは、静かなる「移動」というところだ。ぼくは、このいつもの沢木流に距離感を覚えた。あとがきには、「まず第一に重要なのは『私』である前に『旅』である」、「紀行文を書くことが面白くなりはじめたた私」という表現があるが、沢木耕太郎は本当に旅そのものを面白がっているのだろうか、という疑問がぬぐいきれなかった。同じスタイルの旅に熱狂する方がおかしい。終わりはくるものだ。紀行文の類い希なる名手であろうが、肝心の主役の「私」がもう主役がつらそうに写る。銀幕の二枚目スターが老いても若者主役を演ずるのが続くと観客がつぶやくだろう。いつまでも同じ旅をする沢木耕太郎もきついよなあ、と。

(03年3月記)