アジア・旅の五十音
著者 前川健一  講談社文庫 724円

アジア路上観察者のキーワード・エッセイ

最近、日記文学と旅行記に関心があるので、新刊の「旅行記でめぐる世界」(前川健一、文春新書)を読んでみた。素晴らしい。著者の名前はずっと前から知っていたが、まさかこれほどの碩学の書き手だったとは。旅行記は質はさておき誰でも書ける。
しかし、玉石混合の旅行記の中から俊作を抜き取り、その時代の関連を読み解き、その変遷を辿る、それに独自のコメントを記す、これはもうアカデミズムの研究領域で ある。それを在野のフリーライターで、チョンマゲ頭にしてゴム草履でアジアの路上 をそぞろ歩く前川健一がたやすくやってみせた。読み手に、たやすく、と感じさせる のは、それほどの力量があるということだ。前川健一の実質的なデビュー作品「東南アジアの日常茶飯」(弘文堂)は食文化観察ノートにして学術書の領域に達している。
これは失礼しました、と長年の著者への無視(私の無知)のお詫びに、いつものように著作全読破をおこなう。 「アジア・旅の五十音」は先日のタイ、ラオス旅行に持参した。50音順にキーワー ドを抽出して250のエッセイとして編集してある。タイトルは、孤独、世界三大スー プ、中年、添乗員、ぬけ殻、ノート、偏見など(記載したのは私が印を付けた箇所)。 一編の長さも様々。著者の得意分野である東南アジア地域の食文化に関する内容は抑 えめで、旅にまつわる周辺雑事へのコメントが縦横無尽、多種多彩に並ぶ。まるでタ イ料理の豊かな品々のように。しかし、辛みはない、まろやかな語り口だ。読み終え た時に、アジアの路上観察者たる前川健一の旅の姿が立ち上がってくる。  「夜」は「夕食後はほとんど出歩かないのは、昼間の散歩ですっかりくたびれてい るせいであり、水浴びしたあと着替えているから、外出するとまた服が汗で濡れると 洗濯がたいへんだなと思うからだ」。私もそうだ。「理想の宿」は「木造二階建ての、 小さな宿がいい。(中略)本を読んだり日記を書いたりできる机と椅子と照明がほし い。(中略)経営は家族でやっているところがいい。夫婦と三姉妹だ。四姉妹でも五 姉妹でもいいのだが、あまり多いと疲れるから三姉妹でいい」。まさにそうですね。

(03年5月記)