なにも願わない手を合わせる
著者 藤原新也  東京書籍 1800円

「死を想え」と「死者への想い方」

藤原新也の著作はすべて読んできた。写真展があると聞けば、東京、門司へも観に行った。今回の新刊もすぐに手にした。藤原新也のあのゆったりした、独特の長い間合いのある話ぶりに合わせるようにして、一章ごとに、めくるページを立ち留め、余韻にじっくり浸りながら読み進めた。
藤原新也の原点となる紀行作品の『印度放浪』、『アメリカ』などを読むと、彼の眼差しの鋭さ、深さに加えて、とりわけ領域の広さに感心する。普通、旅する者の視座は点から始まる。それから旅の練度に応じて眼差しは線へ、さらに面へと連なる。まあ、そのあたりで対象世界を捉え、留め置く。藤原新也の場合、対象世界の空間を丸ごと捉え込む。それが写真と文ともに独自性を発する源になっているのではないか。世界の「観想者」を自負する彼の所以である。彼の作品に触れると、無性に旅に出た
くなる。旅心を触発される。やっぱり彼の作品は旅への阿片だ。
随分と前置きが長くなった。今回の新作は、83年発刊の写文集『メメント・モリ』と関連性の高い内容になっている。発刊以来、現在まで息長く読み継がれている『メメント・モリ』の冒頭で「いまのあべこべ社会は、生も死もそれが本物であればあるだけ、人々の目の前から連れ去られ、消える。街にも家にもテレビにも新聞にも机の上にもポケットの中にもニセモノの生死がいっぱいだ」と記し、「死を想え」と強いメッセージを放った。
それから20年。写真とエッセイを組み合わせた写文集(著者独自のスタイル)で、今度は「死者への想い方」を著者自身の体験を踏まえて書き綴った。「死を想え」から「死者への想い方」へと思考は耕された。切り出しは、実兄を亡くした藤原新也が3度目の四国巡礼の旅に出ることから始まる。母、父、そして兄と肉親が亡くなると四国へ向かったという。供養という行為も、藤原新也にかかると深度がぐっと深まる。「自身の中の死者への残念を浄化することこそが死者への供養だ」。「死者の魂への供養であるとともに自身の魂への供養でもある」。死者をどう受け入れればよいのか。巡礼寺で目にした幼女の祈りのシーンを見て、「なにも願わない。そしてただ無心に手を合わせる」、それからさらに「海のような自分になりたい」と示唆に富む思索模様は圧巻である。
読了後、私はふと「祈りは小さい方がいい」という言葉を思い出した。この春、福岡での彼の講演会の時に紹介したせりふだ。チベットの僧侶が若き日の彼に言った言葉らしい。彼のメッセージをヒントに私も思考の羽を伸ばしてみた。
(03年8月記)