私の家は山の向こう テレサ・テン 十年目の真実
著者 有田芳生   文藝春秋   1857円

アジアの歌姫と中台現代史

10年前に急逝したテレサ・テンの生涯を中国と台湾の現代史とに重ねて描いた本 格派ノンフィクションである。取材開始から完成まで13年間もかけ、著者自身が自 らのホームページで「このような仕事は人生においてこれが最後だ」とこの作品への 熱意を語っているのだから、著者の並々ならぬ気合いが伝わってくる。
この本は日本でのヒット曲『時の流れに身をまかせ』、『つぐない』など今でもカ ラオケでたくさんの人に歌い継がれている演歌歌手、テレサ・テンの生涯を知るだけ の内容に留まっているわけではない。読み手としては色々な興味からこの作品の中へ 入っていける仕掛けが施してある。この本のタイトルにもなっている『私の家は山の 向こう』はテレサ・テンが衆目の前でたった一度だけ披露した歌である。歌う前にテ レサは「みさなん、この歌を聴いて、わたしのこころがいったい何を叫びたかったの かをわかってください」と述べている。これはどこでどのような状況から歌われたも のなのか。テレサが住んでいたパリのアパルトマンにあった「日々の暮らしのなかで 必ず目に入る場所にさりげなく飾られた一葉の写真。(中略)何か特別な意味が込め られていたというのか」。この写真の意味とそこにこめられた彼女の心境とは何か。 テレサ・テンは「アジアの歌姫」として中華世界では絶大な人気があったが、当時、 台湾と中国とは極度の緊張関係にあったがために、彼女は政治的綱引きに利用された。 中国の新聞に台湾の国際歌手のインタビューが大きく報じられる。その大きな波紋と は。あるいはまた、95年のタイ、チェンマイでの死去が衝撃的であったがために、 謀殺説、エイズ説などの死因へのスキャンダラスな風聞が立った。台湾のスパイ説も 出た。その真実とは。この本の帯に書かれている通り、「全ての謎の答えはこの本に ある!」。
謎解きと言っても上質である。確度の高い情報を淡々と記載しながら、抑制のきい た筆致が連なる。彼女の「本当の死因」を探る後半の章でも、著者がテレビでコメン トする時と同様に冷静な語り口である。関係者からの証言を多層的な構成により浮か んでくる彼女の末期は、痛々しく、寂寥感が漂う。私はてっきり一緒にいたフランス 人の恋人というのは、まさか14歳も年下で大切な時に激しく取り乱すような人物で はなく、良識のある年輩の紳士であると想像していた。これはテレサ・テンの日本で ヒットした歌のイメージが影響していたのかもしれない。
最後に個人的なことを記す。タイのチェンマイで彼女が亡くなった時に私もタイに いた。その頃、私はメコン、メナム、イラワジと東南アジア三大河のデルタ地帯を一 カ月程かけて東西に串さしするように旅していた。偶然に知り合った日本人のフリー ランス・ジャーナリストの人から、そのニュースを聞いた。名前と扱っているテーマ とかは失念したが、彼が興奮気味に語った「今日、タイでテレサ・テンが死んだ」 (実際はその前日、死亡)というやりとりは鮮明に覚えている。  私が「必ず彼女の曲をカラオケで歌う子がいますよね」と冗談で応じると。  「テレサ・テンはアジアの歌姫でスーパースターですよ」 なに言ってんですかとばかりに、しばしテレサ・テンがいかにすごい歌手であったか を解説してくれた。それを機に私もどんなふうにして亡くなったのかは当時から少な からず興味があった。テレサ・テンを特別な歌手と思うようになった。
中華圏のスーパースターであるテレサ・テンに対して台湾と中国とが繰り広げた政 治的な綱引きに関しては以前、読んだ『百年目の帰郷 ― 王貞治と父・仕福』(鈴木 洋史)を思い出した。この本では野球界のスーパースター王貞治をめぐって同じく台 湾と中国とで争奪がなされた経緯が紹介してあったからだ。

(05年4月記)