中国海岸部への旅(3)守護神の瞬間
○月○日
香港で気になる男がいた。ぼくにとって香港での関心事は、香港の繁栄や返還前の最新情報など当世風のものではない。そういったものからこぼれ落ちた男が瞬間的に見せた鋭い眼光だった。上海から始めた中国海沿岸部紀行の最終訪問地である香港からの報告。
守護神の瞬間
香港の「そごう」デパート前にひとりの物乞いの男がいた。土下座の姿勢を崩さず、ずっと頭を下げ続けているので顔は見えない。前方に置いた袋に金が投げ込まれると、さらに頭を下げてそれに反応する。それ以外は微動だにしない。
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路上の物乞いの態度や人相風体は国によってかなり異なる。インドでは物乞いは積極的にお金をせびりにきて、こちらが小銭を与えてもお礼も言わない。もらって当然のような顔をしている。持てる者は、持たざる者に「施し」を与えることで徳を積むことができ、来世の幸福が約束される。持たざる者はその「施し」によって現世の生活の糧を得る。これがヒンドゥー教におけるバラモン思想のギブ・アンド・テイクの考え方だ。さらに聖者からペテン師まで物乞いの人材が実に豊富で多様性に満ちている。翻って、アメリカで見かけた路上の物乞いは、競争社会の脱落者という印象が強い。マクドナルドの空の紙コップを片手に持ち、行きかう人々に慈悲を乞う。コインをコップに入れると、「アプリシエイト(感謝します)。今日も一日よい日で。」とリップサービスしてくれる。だが、情けをかける者から慈悲にすがる者への一方的な力関係がはたらいているだけのうようで、どこか刹那的雰囲気が漂っていた。
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この香港の繁華街に土下座している物乞いの男も、アメリカ的な慈悲を乞う姿に似ていた。香港人は昔から香港に住んでいた人は少なく、大半が中国本土から身ひとつで駆け込んできた人達だという。そして持てる者へと一心に突き進んでいく。この物乞いの男はその落伍者なのだろうか。
今日、ぼくはあと数時間後には帰国の途につかなければならなかったが、この男が気になって、そばでじっと眺めていた。いつものように男は土下座の姿勢をとり続けていた。しばらくすると、警察官が男に近づき、何かひとことふたこと声をかけた。この場から立ち去るようにうながした。若い警察官の態度には男をぞんざいに扱うようなものではなかった。職務意識から声をかけざる得なかったのだ。男はスローモーション・ビデオを見ているかのように、ゆっくりと弱々しく立ち上がり、背中を極端に曲げたまま歩き出した。その背中の曲がり具合が極端だったので、身障者かなと思った。のそのそとデパートの裏側へと立ち去って行く。ぼくは後をつけた。するとどうだ裏路地の人通りが絶えた所に来ると、背筋を伸ばし、しっかりした足どりで歩くではないか。
<あれは演技だったのか>
男が後ろを振り向いた一瞬、男の顔が見えた。予想に反して若い。四十手前くらいだろうか。いや四十を超えているかもしれないが、そう見せないくらい顔の色艶がいい。身体的ハンディキャプがあるためにこの稼業に勤しんでいるわけではないのだ。男はしばらくその辺をぶらついて時間をつぶし、警察官がいなくなるのを見計らって、「そごう」前の常連人と化する腹づもりのようだ。男は時々足を止めて周囲を窺う。その眼光は、後をつけているぼくの足をすくませるほど鋭かった。
ぼくは今の香港にはそれほど居心地の良さを感じない。街並みを見渡してみてもアジア的混沌さはペーブメントされ、特に若者がそうなのだが香港人には中国人特有の生命力の強さが伝わってこないからだ。
<でも、おみそれいたしました。>
アジア金融街に君臨する香港上海銀行の前には、風水師の助言により獅子の石像が両脇に置かれている。これは今日的香港の象徴として有名であるが、そこだけではなかった。香港のデパート前にはこんなしたたかで生命力がありそうな守護神が座しているのだから。
(96年9月)
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